完全に知らなかった

僕たちはわかりあうことができない

失踪と、決まらないことの話

失踪するなら今だろうと思う瞬間がある。

恋人と過ごす休日の中、一人で自動販売機まで向かうエレベーター。

通勤電車の代々木公園駅。

待ち合わせ場所に先に着いた友人に、到着を知らせるメールが送信される瞬間。

消え去りたい悲しみや、死んでしまいたい苦しみとは遠い時間に居て、それでもなお、失踪するなら今が正しいと思う。

一切の計画性や脈絡を無くせるんだと、自分から吐き出せると信じているのだ。

 

食べたいものや、入る店が決まらないことがある。

地元にいた頃は選択肢自体がなかったし、迷うこともなかった。そもそも自分で食事を決める機会なんてなかったのだ。

群馬の田舎町で18年を過ごして、それから先は東京の端っこから都心へ通っている。

本当はその中に八王子があったが、あの期間は曖昧な日々だった。あれが八王子でなくても郡山でも仙台でも田町でも、とにかく地元でさえなければ何も変わっていなかったように思える。

ようやく十年とちょっとをおおよそ一人で暮らしてきて、食べたいものが決まらない。

決まらないことを許しておきたいと思っている。些細な自由を許しておきたい。

 

本当に小さな、日常に選択を残しておきたいのだろう。

「その気になれば」を持っていたい。日々を手放すことや、初めてを食べることを、大事に大事に握り締めている。

新しいことを始めて上手くいく可能性を、上手くいった未来を減らしたくないのだ。

そうしてブログ一つも始められずに生きる。生きていた。

才能ある僕を、才能のあった僕を、活躍する僕を、活躍した僕を、輝ける僕を、輝いている僕を、愛される僕を、愛された僕を、信じられる僕を、信じられた僕を、手放すことがいつまでもできない。