完全に知らなかった

僕たちはわかりあうことができない

思い出してやることだけがせめてもの供養なのだろう青春の

思いついたことを全て書こう。

思いついたことを思いついた順番に全て書いて、それを振り返ってタイトルをつけたら、そのタイトルが2013年夏の俺が持つ全てのポエジーだ。

風呂に入ったり一人で飯を食ったりしている間には無尽蔵に何かしらが思いつくし、そしておおよそそれらは面白い。驚いたことに俺の頭の中からまるで自動的に生み出される言葉たちは俺を楽しませる。いつだってだ。

しかしそれを文章としてあるいは発話として収めようとしたとき、たちどころにそいつらの姿は消えてしまう。ないわけではない。あったものがなくなることはない。俺の頭のなかにはいつだって自動的に面白さが生まれている。なくなっていないのだとしたら何か。薄まったのだろう。薄まったのだ。宝石を削りだす優れた職人は鉱石を見てその完成形を思い浮かべるだろう。俺は俺の頭の中の鉱石を削りだす唯一無二世界一の職人なので、まだ完成していない形を持たないものたちをノータイムでエンコードし味わうことが出来る。”それ”をそれのままでそのまま咀嚼し楽しむことが出来る。だが残念ながら一遍そいつらを頭から出そうとしたら大変な苦労だ。何せ何かに変えなくちゃいけない。それはとても面倒だし、僕にはあまりにも難しい。夢も目覚めた時に言語化なり視覚化なりしているだけで、実際は完全にイメージだけ概念だけの世界なんじゃないかと思っている。本当はそれをそのまま保存して、人生の間に見た夢全てを死に際に再生したい。そんなことを考えている間だけは目覚めているときの夢が降りる。

 

電車の中、あるいは仕事中・授業中、本当は完璧な自分に対する答えみたいなものを掴んでいた気がする。

 

俺はゆっくりと少しずつ物事を進めることが苦手だ。正確にはすることが出来ない。アイキャントだ。何もそれは難しいことばかりじゃなくて、物を食べることなんかがそうだ。俺はガムを噛むのが苦手だ。下手だ。ゆっくりと噛み続けることが出来ない。口に入れるなり全速力で味がなくなるための手段を行使する。要するに噛む。そうして口の中の物に味がなくなれば、次の塊を口に。噛む。その繰り返しだ。これはガムを嗜んでいるとは云えない。戦っているのと同じ。これは戦争だ。さようならロッテ。韓国旅行から帰った同僚がロッテ製のお菓子を買ってきたことがあった。それは日本のコンビニでも買えるものだった。餅チョコ

チョコレートが身体に合わない。どうもチョコレートが身体に合わない気がする。「気がする」とは書いたが、実は半ば確信に至っている。食うと頭が痛くなるからだ。何度も人体実験を繰り返し、とうとう結論を出さなくてはいけない日が近づいているようだ。チョコレートが身体に合わない。味は好きです。でも本当に好きなのだろうか?

俺は子どもの頃から甘いモノが好きで、人並みに食べてきた。でもそれは本当に好きだったのか?子どもの頃の好き嫌いが自分で選び取ったものとは思えない。なんとなく俺は「子どもは甘いものが好きだ」というイメージを正直に写しとっただけなように感じられる。

うちの母親は「(俺)は納豆が好きね」とか、今にして思えば。テキトーに、あるいは「それを好むことで母親にないしは家計にメリットが有ることを望んで」俺に語りかけた。俺の母は俺に語りかける。サンボマスターが俺に語りかけてほしい。今はそんなに聴かなくなったけど、俺の青年期を支えたものの一つだった。楽器が弾けるような人生が良かった。それは今からでも手に入るのだが、楽器が弾けた青年期はもう手に入らない。なにせ青年期はもうこない。時間は戻らない。様々な経験や思考を経ても結論は「時間は戻らない」だったりする。残酷というか面白みのない話だ。文化祭でバンド演奏をする機会が俺にやってきたら、これはもちろん時間が戻ったらという話で、つまりありえない仮定の話だ。夢想。夢。俺は何をするだろうか。これはもちろんありとあらゆる努力や才能を乗り越えて、俺はなんでもやりたいことがやりたいように出来たとしての話だ。夢想。何をするだろうか。たとえば高校時代に。実際に俺が通り過ぎた高校なんかじゃなくってもいい。もちろんだ。自由なのだから。素敵な学園生活の中、素敵な友人に囲まれた俺は、そこで何をするだろうか。そんなところでやりたいことは一つもない。けどその時の流行りのバンドのコピーバンドでもやるのだろう。もちろん俺はギター兼ボーカルで歌は上手いし演奏は上手い。オリジナル曲なんてもってのほかで、意思や思想なんてひとつまみほども入らない。学園祭のプログラムそのもののように振舞って、終わったら打ち上げの一つでもするのだろう。だがそこで涙を流すことはない。都合の良い夢の中で流れる涙はない。

泣くことはとても気持ちがいいので、泣けるお話泣ける映画に群がる人々を笑うことができない。できないことだらけだ。現実の俺は。ただ泣くことはできる。誰に寄り添うでもなく、俺は俺のためだけにただ泣くことができる。泣いたり笑ったりすることは自由で、それが自由なことではないかのように思える日々を生きている。ステージの上でギターを弾く。だが実際には弾けない俺のイメージはあまりにも貧困で、手元はぼやけている。本当に、一つでいいから得意なものが欲しかった。一つでいいから。もうすぐ三十になる。なにか一つでもいいから得意なものができるといいね。

 

たとえばガム たとえばギター たとえば死 手から離れていくものたちへ